少林寺拳法における「うまい」「下手」は何を基準にするかは難しい。
スポーツとしてうまい子もいれば、護身の術としては出きているが演武はうまくはない。
特に子どもにおいての差はいろいろあると思う。
しかし、ある程度、特に緑帯以上になって基本的な動きが出来ていなかったり、あきらかに下手な場合は、それはもう指導者の責任だと僕は思う。
もちろん、小さい子であるとか、高齢者、また思うように体が動かない場合は別として、一定の期間指導を受けている中で、うまくできていないのは、教え方が悪いとしか言えない。
教え方に疑問を持つべきだろう。
しかし、実際指導に当たっている拳士で、そこまで責任感をもっている人も、どの程度いるのか疑問だ。
ちょっとこれは大前提として、別に僕は子どもたちや道院の人に「うまくなって大会で入賞してほしい」という意味ではない。
少林寺拳法を身に着けていく過程において、やはり技だけでないとは言いながらもうまくできるべきだ。
実際のところ、少林寺拳法のなかでは「指導方法」については、規定がない。
それがいいところでもあるが、悪いところもある。
実際中には「自分の技術以外は認めん!」というタイプの指導者もいる。
その技術が万人が再現性があればいいが、そうでない限りは「そのやり方もあるよね」というだけである。
少林寺拳法に参座してくれる人を指導する。
それは、その人の時間と自分の時間を互いに提供しあい、成り立っている。
であれば、指導する側は指導する責任がある。
反対に、指導受ける側は真剣に取り組み責任がある。
ということで、指導を受ける側に話はまた書くが、まずは指導する側として「どうすれば、この人がもって少林寺拳法がうまくなるか」ともっと真剣に考えるべきだと思う。