先日子どもたちの指導のなかで、茶帯の小学3年生の男の子に、「一年生の黄色帯の子を指導しろ」と突然振った。
いきなりのことで、何をすればいいか分からなくて戸惑っていた。
しかしこれは、「お前も茶帯やねんから年齢関係なくら指導する側の目線で見ろ」と言う僕からの実験的指導であった。
はっきり言うと、その子はうまくは指導できなかった。
その後、僕がみんなに話をした。
皆んなが巻いてる帯には意味がある
「皆んなが巻いてる帯には意味がある。
技が出来れば帯はもらえるかも知らんが、技の出来るだけの奴はいらん。
君らには少林寺拳法以外の場で、リーダーになって欲しい。
そのためにも,茶帯の子は緑帯の子の手本に。緑帯の子は黄色帯の子の手本にならなあかん。
帯の色には誇りを持て,ただしそれは手本になると言う責任と義務を伴うんや」
どこまで伝わったか分からんで、また同じ話はしようと思うが、その後の練習で、最初に指導させた子の目の輝きは少し変わっていた。
少林寺拳法の開祖も言ったこと。
それは「雑魚はいらん」である。
技は出来ないといけないけど、技を通じて人として成長せん奴はいらん。
そのためにも指導側がかなりの熱量を持って、そもそも手本にならないとアカンと思いました。