演武は特別なものではなく、日々の修練の延長です。
演武は特別なものではない!
少林寺拳法において「演武」とは、ある意味花形であり、大会においても演武により優劣がつけられます。
しかし、少林寺拳法において果たして「演武」は特別なものでしょか?
今回は、私なりの演武についての考え方を、特に少林寺拳法初心者に知っておいて欲しい話としてお伝えします。
そもそも少林寺拳法における演武は特別なものではない理由
ネット上に武専の資料があり、演武において次のような記載がありました。
開祖曰く
演武というのは、音符を五線紙の上に書き入れて作曲するのと同じである。
ドレミファソラシドの音符が法形であり、その音符を自由に並べて曲を作る。
このできあがった曲が演武である
ようは、法形を並べて作るものが演武であり、演武を作るというのは法形のうえにあるということです。
演武の技というものはない
よく演武用の技なんていう人がいますが、決してそんなものは存在しません。
ということは、演武が正確に出来るということは、そもそも法形がちゃんとできていることが条件となります。
法形が、ちゃんとできているとは
これは結局どこまでいっても、正確に技が出来ているか?ということになります。
もちろん演武は動きの中で法形をおこないますが、冷静に考えればやるべきことが見えてきます。
例えば以下のようなものです。
そもそも正確な攻撃をしているか?
剛柔限らずですが、どこをどう攻撃しているのか?どこを押しているのか、引っ張っているのか?
どうしても守者側に目がいきますが、攻者の動きも大事です。
構えと技の関係
例えば下段返からスタートする場合、守者はわずかに前体重になっているはずです。
後体重で構えているなら、払受蹴になるはず。
中段返しも前体重で構えている段階で、法形として成り立たなくなります。
普段の修練でも、こうした細かいところをちゃんとやるべきです。
飛ぶことに先行した受け身
少林寺拳法の受け身で、飛び受け身は確かに見せ場ではあります。
しかし、飛ぶ必要がないのに飛んでいないか?
そもそも掛かっているのか?崩せているのか?は、飛ばずとも転がしでちゃんと練習すべきです。
「演武の受け身は飛ばなくてはならない」とはどこのルールブックにもありません。
むしろ、正確に出来ているか?です。
普段転がるように修練していたけど、本番力が入って掛けたら相手が飛んだ。
というくらいがいいのかもしれません。

大会で勝つ演武、自分たちがしたい演武
どうしても「大会」といものがあり、またYouTubeやスマホでの動画撮影の影響で、特に学生さんにおいては個性のない演武が増えました。
運歩数、固めの向きなど「審判によく見える、より評価される演武」のアドバイスを求められることが多いと、これまで多くの入賞者を育てた友達が言ってました。
しかし、彼も言ったのが「審判員を気にする演武よりも、自分たちがしたい演武を磨き上げてほしい」と言っており、まさに同感です。
大会とは、どうしても優劣がつきます。
でるなら、上位に入りたい。これは当たり前の心理です。
よって、審判員に評価されやすい構成を模索することはあるでしょう。
でも、本当に自分たちがやりたい演武を磨き上げて、それで入賞するのが一番だと思います。
また、そういう大会至上主義の少林寺拳法への向き合い方が、卒業後にほとんど辞めて道院・支部にはいかない。という現実を作っていると考えます。
演武を、ほとんどしたことない審判員もいる
また、少林寺拳法の演武の審判については、審判員が必ずしも演武経験が豊富だとも限りません。
演武を積みあ出ていく「ロマン」を理解されないこともあるでしょう。
しかし、そんなもんです。
他人から評価を受けて、順位が決まるものには、後味の悪さが残ることもあります。
よく大会後に「あの点数はおかしい」という声を聴きますが、それはもうしゃあないのです。
誰が見ても圧倒的な高みにもっていくことしかないのです。
まとめ だからこそ、少林寺拳法の演武は自由にやろう
少林寺拳法の演武は、開祖が言ったように私も、組む二人が作るハーモニーであり、作品だと思います。
ふたりでこだわり、磨き上げた一品を発表すればいいと思います。
しかし、その表現においては、やはり正確な法形のうえにあることを意識し、日々の修練を積み重ねることしかないのです。
・演武はやりたいようにやろう
・しかし、そのためにも正確な法形をしっかり学ぼう
・組んだ相手と作品を、体を使って表現するのが演武
特別なことをするのではなく、普段やっていることをそのまま表現する。
それが本来の演武だと感じています。
ぜひ、これから演武をしようとする人は心得ておいて欲しいです。
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